crazy-tamako’s blog

私のオウムになってください

私の生活を分析するための、備忘録。
収支状況の分析。メモ。たまに趣味と夢の話。

こどもができたって

幼馴染がついに懐妊したとの報告。

幼馴染グループでは1番結婚も早く、ゆくゆくはそうじゃろね、と本人も含めてみんなで思っていたところ。

 

あーーーーーー、なんでこんなにめでたいと思うのだろう。

幼馴染グループは、全員心穏やかで人として真っ当だ、不器用な感じが人間だけど、優しいし、私は大好きな人たちなんだな。

旦那ができたというのもすごく嬉しかったけど。

そこのコミュニティの中に、もうひとりあたらしい命が生まれるという事実がすごく嬉しくて、あったかい人たちの中に生まれる命、なんてきみは幸せ者なんだろうなぁ、と今からその子に脳内で語りかけています。

 

なんだろう、君はまだ宇宙にいるのかもしれない、宇宙にいるなら私の思うことやメッセージもきっと伝わるよね。

はあ、地上にでてきた人間たちは、地上を這うことに一生懸命だし、宇宙を共有できないから、話が通じないことも多くて、わかりあえなくて傷つけることも多いのよ。

君がでてくる地上は、きっと大丈夫、私も含めて素敵な大人がたくさんおるから。

 

そして私も同時並行で赤ちゃんからやり直せないかなあ、君と一緒にこのコミュニティの中にいられるなら、もっと素敵な人間になれると思ったんだけど、、、そんなことができるわけないから、努力するしかないね。

 

ただ、その報告を聞いて感じたのは、めでたいなと思うと同時に、全ての優先順位に横入りしてきた横暴さですよね。

めっっっちゃめでたいことなんですけど、私は本人にも言ってしまったんですけど、もし究極の選択に陥ったとき、わたしはあなたを選ぶから、あなたも自分を大切にしてほしい、と言ってしまいました。

 

結婚もそうなんですけど、後から登場した人間に軽々と優先順位めちゃくちゃにされて、ちょっと嫌なんですよ。

私の中では彼女自身が1番なのに、彼女たちは私と同じように認識している1番に当たり前に旦那や子供を入れようとしてる。私と同じように、自分を1番に大切にしてほしい。

 

あなたにとって1番は子供や旦那かもしれないけど、あなたを1番に考えたいと思う私もいることを、忘れないでほしい。

 

あなたが幸せであるのが1番です。

と思うのでした。

 

 

以前、兄の結婚式のときに、私は勝手に兄に「幸せになってほしい」と願われました。

幸せの定義がそのときなんだよ、ってかんじで、勝手に祈るなよ、呪いなんだよそれはよ、適当に言うな、となんか謎に泣きながらキレていて、しばらくそうでした。

最近になって、理不尽な人や事象に振り回されたときに、私は幸せにならなければならないんだから引っ込んでろ!とこうはねつけられる力ができたというか、愛のある呪いだったんだなこれは、と思いました。

 

兄、おまえ、そういうとこだぞほんと。

 

 

元同僚の結婚式に行って思った話

プロパーで入った前職の同僚が社外のサークル活動で出会った女の子と入籍をし、先日両名の結婚式に招待していただいたので参列してきました。

色々、今の自分にとても良い時間だったので、なぜそう思ったのかということを忘れないために書き記したくキーボードをたたいておきます。

 

〇元同僚について

その同僚とは、新卒時代の離島の地で苦楽を共にした私にとってはかけがえのない存在ではあるんですけど、なんといえばいいのか、ちゃんとした人間を生きる、結構私の人間のカテゴリの中で尊敬に値する部分にいる人なんですよね。

彼は結婚してゆくゆくは家庭を持って、家を買い、会社の偉い人になるのだろうという感じの人間です。

彼のお父様が「自分の息子はスポーツや勉強も秀でたものはありませんでしたが、思いやりをもつことをだいじにしろと言い続けて、結果こんな身の回りの人に恵まれることができた、こんな素敵な人と結ばれる事ができました」と仰っていました。

事実、私は人生の最大の暗黒時代だった転勤時代、一緒に赴いたこの同僚がいなければ、完全に心を病んで、その土地を完成系のヘイトを持って今も過ごしていたと思われます。

入社当初は、軽薄な言動が多くて、まあ要するにチャラい、根暗な私とは正反対だし絶対に何か一緒にすることはないだろうと思っていたんですが、新卒二人ボッチでの離島時代、他人のために考える努力を惜しまないその姿に、私は感銘を受けました。そして何より救われていました。そんな彼がえらぶ奥さんが、人間として悪いとは到底思えないんですよね。

彼の思いやりの根っこはこのご両親だったこと、そして、そのご両親がそうおっしゃるのであれば、この場に参列している人々は、この新郎新婦に少しながらでも思いやりを持って接された人たちなんだなと思って、これが世界平和の発露なのか?と思いました。

 

他人のために考える努力、というのは、もともと出会う前からしていたとは思えないんですが笑 おそらく、会社の先輩などから仕事に対するスタンスの指摘を受けて、その中で自分で独自に気づいて自然に培ってきた能力なんじゃないかと勝手に感じています…

もちろんもともとのご両親の教育や環境下によって、備わった素質があったという前提で。

 

上司など権威がある肩書の方は参列していなかったんですが(本当にたくさんの先輩後輩友人ばかりでした)それでも彼はあらゆる人を救い、救われ、きっと求められて上に立つ人間だろうと推測します。お酌や頭や他人を下げなくても、肩書や権力ってあとからついてくるものなんですよね…

勉強やスポーツは、言うても、人並以上はできるとは思うんですが、そんなものよりも素晴らしい魅力や長所が彼にはあったなと、私が思う良い人間てこういうことだな、とお父様の祝辞を聞いてホロリ。

 

〇会社の先輩との関係

 

役職つきの人間はいませんでしたが、2人だけ会社の先輩が招待されました。

1人の方は、参列者代表のスピーチを行なっていたんですが、どうやら彼に考え抜くことを教えたのはその方のようで、披露宴冒頭で、彼にそのように教えたと、そして立派な社会人になったと褒め倒されておりました。

 

最近あらゆることを考えすぎて、考えることがすごく面倒になって、仕事や人付き合いを適当にしがちだったんですが、でもそのスピーチを聞いて大反省しました。

私は思いやりとはまた別のベクトルで、考えることを放棄しない、というのがモットーなんですが、たまにそれに縛られて息苦しくなりクソ人間みたいになることがあります。連絡を適当に返す、とか、仕事もなあなあにこなす、とか。

ちょうどその日は、あの案件テキトーに片付けようとしたなとか、友人のLINE既読無視してんな、とか思うことがたくさんありまして。

あーーーー、こんな人間になるには、ちゃんと考え抜いて行動しなきゃいけなかった、と気づき、反省。

先輩もB5の細かい文字の原稿をしわくちゃになるほど何度も読んでいて、こういう関係の積み重ねなんだよ人生は…とまたも反省です。

まったく会社の紹介などせず、先輩後輩の関係の中で、彼の素晴らしいところ、今後の気を付けて奥さんと乗り越えてほしいことを見栄もなく、丁寧に熱く認められていて、すごくいいなと思った次第です。

 

〇彼のメッセージの話

 

よくある披露宴の参列者のテーブルの上に置いてあるメッセージカード。

それぞれ一言だけ書いてあったんですが、おそらくその人を通して得られた気づきなどが書いてありました。「キツくても仕事に行くこと」が私はそうだったんですが笑

あとは仕事のさぼり方、だとか、手の抜き方とかね。

ふつう、「また今度ご飯いってね」「何とか楽しかったね」「これからもよろしくね」的なことが書いてあるのが通説かと思うんですが、そういうことを書くんですね、彼は。

他人から得られた気づきを、言語化してメッセージに落とす、そのことについて感謝をしているというのを伝えてくるって、常に他人のいいところを抽出して人と好意的に接している人間じゃないとできないことかと思います。

そういうところも人間性でてますよね。。。

 

 

〇べた褒めで終わりそう

 

ほんとに終わりそう。悔しい。人間として尊敬している、というのを今回の式で再認識したのですが、「今の私は大丈夫か?」というのをもう一度振り返られるいい機会だったと思います。

参列者に呼ばれて光栄だとも思ったし、「またね」「これからもよろしくおねがいします」と言われることが、こんなにうれしいと思ったことは久しぶりでした。

というか、純粋にこんなに人を尊敬できると思ったのも久しぶりで、こんな記事を書いていることにも正直びっくりしている。それほど敬意と友情と愛がバランスよくある式だったと思います。

 

新婦側より新郎側のほうがなんだか落ち着いていてご飯を食べたりできて、私は好きでした。女子って緊張するよね、なんでだろう…。私も男がよかった、、、と、男だったらもっと対等にいられたのだろうか、と考える毎日です。

 

前職は円満退職で、ほかにやりたいことがあるからニートになりたいという理由で半年前に辞めました。2か月ニートして結局働きましたけど、興味のある業界に来られて、そしてこれからも好きなことにまい進できそうで、とにかく円満退職のままでいられそうでよかったです…。

夏物語(川上美映子)

 命を産み落とすことは

 

去年、日比谷で購入した本三冊のうちの一冊。

精子バンクに興味があったので、読んでみた。

 


1ページ1ページが本当に重くて、読み進めるのに時間がかかってまった。

自分の人生の一瞬一瞬を想起させて、再度噛み締めさせるような描写。例えば、生理が始まってパンツとシーツを洗うシーン。

私もよく粗相するからわかるし、セックス嫌いだし、なんでこんなしんどい思いして、虚しい行為繰り返すんじゃろ、絶望する。昔付き合った男たちの思い出をすり減らすくらい考える。これまでの自分の想いと友人たちの言動の答え合わせ、再解釈。

 


読み進めてる間に、既婚の友人から言われた

「結局子供を産むか産まないかは、自分の人生を肯定できるかどうかだと思う」というのがまさにこの物語の私にとっての真髄だと心に深く刻みました。


一章の内容を読んで、夏子が産むという概念を抱え始めたときからこの人はきっと1人でやり遂げるだろうなと思った。

というのも、夏子から語られる家族のエピソードを読むと切なさに泣きそうになるからだなぁ。逢沢さんが語る父の話も美しくて本当に心がぎゅってなった。

彼らは、己の人生を肯定している、温かい切ない思い出を抱えていると、それがどうして己の子供に会いたいという気持ちを抑えられるだろうか。

 


そう、そうだな。

誰もが善百合子の存在を無視することはできないと思う

。私は結婚したくないけど、子供が欲しかった。無条件に愛せる存在とはどんなものだろう、私がこの世界を愛するためには、子供という存在が必要なのではないかと思っていた。

父親なんていらない。私が父にも母にもなる。なりたい、と思った。

男と女が結ばれた結果の子供ではなく、私の人生の結果としての、私だけの選択としての子供が欲しかった。

でも、緑子のノートや、今の身の回りの大人や、私の人生を振り返って、そんな自己中心的な考えでこんなクソみたいな世界にクソのような概念を生み出す人間として生まれさせるのは、ひどいことだろうと考えた。

わかっていたことを善百合子が当事者として伝えてくれた。


母は私を産んでよかったと思っているし、私が生まれてよかったと思ってると信じている。おいおい、私が己の人生を全肯定できてると思ってんのか、頭ハッピーだな。と心の底で思ってる、言わないけど。

 


子供が生まれた同級生たちは、私もままになったとママ徒党を組み始めている。理解できない。ママというアイデンティティでつながり合う関係、それは?大丈夫か?ほんとうにあなたのアイデンティティなんですか?

ママにならずとも、己の人生の点数を測りたいがために他人を押し測る。

今の私の世界にもしあなたが生まれたとしたら、わたしはあなたを私の人生の一部として利用しない保証がない。

 


正直、最後の最後まで、新たな命を産み落とすことは最大のエゴで、罪であり、間違っているしやるべきではないと個人的には思っていたんだけど、昔の家に訪れた夏子のシーンと善百合子に最後に会う場面で、産む選択を取ることは仕方ないなあと思った。

夏子が唯一書いた小説、輪廻ではなく、ただずっと進んでいるという内容。

人の営みというのは、そういうことだと思った。ずっとずっと、そうやって人は生き死にを繰り返し、進んでいくんじゃと思う。

善百合子は、進まない。進めない。

 


間違っているとわかったうえで、子供を産むという選択をとることは、何も考えず、己のことだけを考えていることと全く違うことだと思った。

正直、自分がまたどうしたいとは考えられない。子供を持つにはまだ未熟すぎる。

世界をまだ十分に肯定できていない。

仙川さんの最後の言葉も真実であり、事実であると思う。夏子に向き合って本気の言葉をかけてくれた仙川さんもなくしてはいけない。

 


登場人物たちはそれぞれのコスモを抱えて、日々を生きている。夏子はそれぞれの存在を認めて、自分の選択を間違ったものにした。

正解ではなく、間違うという表現をしたのが、すげーーーーーーいいんだよな。

どの人物から切り取っても確かに間違いにみえるんだよ、夏子の選択は。

逢沢も夏子も緑子もすべてすべて結果論だ。

でも最初の選択はやはり間違いから始まるのじゃ。

わたしの人生も、間違った選択から始まったのであれば、まちがったとしてもええやんやろな

 

サラバ!(西加奈子)

こんな敬虔な内容だとは思わなかった。

一気に、上中下まで読んでしまった。

 

以下、ネタバレ。

 

一気に読破するときは大抵、

物語を完全に追い切るまでの読書の時間があること

そのストーリーやキャラクター達に完全に魅了されていること、

その先の展開が気になること

そんな条件達が揃っているとき。

 

サラバに関しては、

正直魅力的な人物だなと思うことはあれど、

その人物達の動向やその先の展開に興味が湧かなかった。

本当にただ家族がおかしいだけのその中で屈託してしまった男の子が

ただひたすらに生きていくまでの過程を見つめる話なんだけどそれだけなんだよね。

ほんとドラマチックな展開とかどんでん返しとか、

クレイジーサイコなキャラクターとか全然いないの。直接的な命の危機とかも。

話の展開も読めるの、起承転結の起がこれなら、結もこれだろうとね。

 

正直もっとSF超大作やファンタジー小説、ミステリーなどなど

心をワクワクさせるようなそれこそ小説の真髄と思わせる作品はこの世に溢れているし、

ただ小説が好き、物語に没入したいと思う人はそういうもの読めばいいと思う。

 

でも、なんでこんな、追い立てられるように一生懸命読んでしまったのかなと振り返ると、

多分私は歩(※主人公の名前)を通して「救われたかった」んだと思う。

 

ヤコブの教会のシーンはあまりの美しさに泣いた。

あの暗黒の時代を守ってくれた「サラバ」という言葉、

ナイル川の岸辺で抗えない事象にただひたすらに泣くだけしかできなかった彼らを支えた言葉、

私はその言葉が文章中に出てくることを待ち侘びていたし、彼らがその言葉を口にするたびに、

私も何かに守られて救われているそんな気がした。

 

私は壊滅的に自身に対する自信がない。

歩のような過去の栄光はないけど、

いずれ貴子から「歩きなさい」と言われるそんな日が来ると思っている。

 

 少なくとも私の環境は、歩より家族に振り回されてはいないと思う、多分。

 というか側から見てそういうふうに見えたとしても、

 歩やいつかの貴子のように「自分は悪くない」と思うような境地にまだきていない。

 でもいずれそう思ってしまうのかもしれない。

 あ、嘘ついたな。

 私は悪くない、と思うようにはなってる。

 コロナになったり、クライアントとうまくいかなかったり、

 仕事が全体的に停滞気味になったり、何かよくない事象が起きたとき。

 まあ、だから自分が不幸だなと思うことに関して。

 

不幸だな、と思うことについて、私は悪くない、て自分を守って、折り合いをつけてきたけど。

だってそうでもしないと本当に折れてしまいそうだから。揺れてる、ってことね。

揺れてるって超かっこ悪いよね。辛いよね。自分を救って欲しいと思うよね。

 

自分を救えるのは自分しかいない、とずっと思っていたけど、私はそれをずっと悪い方に捉えてたと思う。

誰も私を救うことなんかしない、できない。自分にしか辛さや苦しみがわからない。

っていうところから来てた。自分を救おうなんて鼻から思ってないんだよね。

(余白がない状態なのかなこれが)

 

でも、自分を救えるのは自分しかいないっていうのは、自分のことは自分しかわからんからだよ。

だから、自分と向き合うために他人や事象とも向き合う必要があって、

時に自分を救ってもらうために他人を信じてお願いをしたり縋ったりする必要があるんだよね。

(母の「すくいぬし」はこれなんだろうな)

 

どうしようもない事象に対して、「自分は悪くない」で誰かを傷つけたり、勝手に傷ついたり、じゃなくて、

受け止めて、ただひたすらに泣いて、前を向く強さを、自分を「信じ」ないといけない。

「サラバ」は自分を守る言葉だ。それだけは事実だ。

「サラバ」をいう自分たちを信じている。

 

西加奈子はすごい。

こんなどす黒い感情達と、こんな純粋な感情達、をすごく丁寧に、読者にも響かせるように描いてくる。

こんなんしっかりと向き合わないと書けん。すごいよ。自分と向き合うことって本当にしんどいよ。

その向き合った覚悟と、向き合い通した強さに、感動した。

 

この小説が評価されるのも、そういうことなのではないかと思う。

みんなこの話を読み進めたのって、単純に「僕」「姉」等がどうなるか、だけではなくて、

「僕」を通して自分の人生や考え方を投影してたんじゃないかなと思う。

過去に対する恥、懐かしい記憶、大事にしたい記憶、今の自分。

それらと否応無しに向き合わせてきたよ、だから、歩が歩くことを望んだ。私も歩けると思ったから。

 

だから、歩の人生を最後まで見守りたかった。歩を通して、私も救われたかった。

で、読破した今、どうするのかはまた別の話。(唯一、読書の嫌いなところです)

小説というよりかは、ある意味エッセイみたいな捉え方してるけど。

 

貴子は救われたかったんだよな、だから追い求めてたんだよな、

どんなにそれが滑稽でも彼女は生きることも信じることもやめなかったよな、すごいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未熟な精神

心の底から欲しいと思うものほど、

 

己の問題や環境から手に入れることが非常に困難なものであるもの

 

だと思っている。

 

私はずっと人付き合いを真剣にしたことがない。

人と向き合うことがずっとできなかった。

自分の青い芝生の庭の中で小さな私たちと一緒に幸せに暮らしていた。

もちろん、そこにノックをした人もいたし、踏み込んできてくれた人もいた。

でも無理だった。小さな私たちが病原菌みたいに追い出してしまう。庭が世界がザワザワとしてしまう。

 

私は1人でも生きていけるし、

私の庭に誰の席も用意する気は無いの。

 

その考えがある時点で、

私は人生を豊かにすることを放棄して、

自分の庭で、殻に閉じこもって、醸成させて、発酵させて、何年も何年も何も変わらないまま生きていくことが決定されてる。

 

本当はもっと受け入れて青い芝生はやめたい。オレンジやピンクにしたい。

誰からも羨ましがれるような庭はやめて、小さな私たちが喜ぶようなみんなに見せびらかしたくなるような庭にしたい。

 

 

私が他人を見て非常に羨ましいと思うもの。

綺麗な容姿、強烈な才能、学歴、資産、綺麗な恋人、地位、要領。上記に興味はない。

 

私が喉から手が出るほど欲しいもの。

好きと言える覚悟と、

それに向き合うひたむきさ。

すごくすごく、私は羨ましい。

 

私は全世界のカップルと家族が羨ましい。

努力をする人間が羨ましい。

目標を持って生きれる人間が羨ましい。

盲目になれる人間が羨ましい。

 

欲しいと思うものほど、

わたしより遠いところにあるもの。

それを自覚して悲しいし、絶望する。

 

小さな複数のわたしたちを弑したい。

ちっぽけな見栄や、青い芝生を守りたいばかりに、あらゆる自分の大切な選択や、人々の好意を無碍にしてきた。

 

青い芝生はだって楽だし、快適だもの。

だから怖い。怖いを跳ね返すほどの、好きに私は向き合えない受け入れられない。

 

だから、ほしいとはわかっているけど、

遠いし、その遠さにあまりの欲望の深さにも打ちひしがれて、もう無理だと思ってしまうんだ、、、

 

誰よりも澄ました顔して、私が一番精神が未熟。

だから私は自信がないし、

青い芝生と自負していながら、

受け入れる覚悟がない、永遠の未熟者。