命を産み落とすことは
去年、日比谷で購入した本三冊のうちの一冊。
精子バンクに興味があったので、読んでみた。
1ページ1ページが本当に重くて、読み進めるのに時間がかかってまった。
自分の人生の一瞬一瞬を想起させて、再度噛み締めさせるような描写。例えば、生理が始まってパンツとシーツを洗うシーン。
私もよく粗相するからわかるし、セックス嫌いだし、なんでこんなしんどい思いして、虚しい行為繰り返すんじゃろ、絶望する。昔付き合った男たちの思い出をすり減らすくらい考える。これまでの自分の想いと友人たちの言動の答え合わせ、再解釈。
読み進めてる間に、既婚の友人から言われた
「結局子供を産むか産まないかは、自分の人生を肯定できるかどうかだと思う」というのがまさにこの物語の私にとっての真髄だと心に深く刻みました。
一章の内容を読んで、夏子が産むという概念を抱え始めたときからこの人はきっと1人でやり遂げるだろうなと思った。
というのも、夏子から語られる家族のエピソードを読むと切なさに泣きそうになるからだなぁ。逢沢さんが語る父の話も美しくて本当に心がぎゅってなった。
彼らは、己の人生を肯定している、温かい切ない思い出を抱えていると、それがどうして己の子供に会いたいという気持ちを抑えられるだろうか。
そう、そうだな。
誰もが善百合子の存在を無視することはできないと思う
。私は結婚したくないけど、子供が欲しかった。無条件に愛せる存在とはどんなものだろう、私がこの世界を愛するためには、子供という存在が必要なのではないかと思っていた。
父親なんていらない。私が父にも母にもなる。なりたい、と思った。
男と女が結ばれた結果の子供ではなく、私の人生の結果としての、私だけの選択としての子供が欲しかった。
でも、緑子のノートや、今の身の回りの大人や、私の人生を振り返って、そんな自己中心的な考えでこんなクソみたいな世界にクソのような概念を生み出す人間として生まれさせるのは、ひどいことだろうと考えた。
わかっていたことを善百合子が当事者として伝えてくれた。
母は私を産んでよかったと思っているし、私が生まれてよかったと思ってると信じている。おいおい、私が己の人生を全肯定できてると思ってんのか、頭ハッピーだな。と心の底で思ってる、言わないけど。
子供が生まれた同級生たちは、私もままになったとママ徒党を組み始めている。理解できない。ママというアイデンティティでつながり合う関係、それは?大丈夫か?ほんとうにあなたのアイデンティティなんですか?
ママにならずとも、己の人生の点数を測りたいがために他人を押し測る。
今の私の世界にもしあなたが生まれたとしたら、わたしはあなたを私の人生の一部として利用しない保証がない。
正直、最後の最後まで、新たな命を産み落とすことは最大のエゴで、罪であり、間違っているしやるべきではないと個人的には思っていたんだけど、昔の家に訪れた夏子のシーンと善百合子に最後に会う場面で、産む選択を取ることは仕方ないなあと思った。
夏子が唯一書いた小説、輪廻ではなく、ただずっと進んでいるという内容。
人の営みというのは、そういうことだと思った。ずっとずっと、そうやって人は生き死にを繰り返し、進んでいくんじゃと思う。
善百合子は、進まない。進めない。
間違っているとわかったうえで、子供を産むという選択をとることは、何も考えず、己のことだけを考えていることと全く違うことだと思った。
正直、自分がまたどうしたいとは考えられない。子供を持つにはまだ未熟すぎる。
世界をまだ十分に肯定できていない。
仙川さんの最後の言葉も真実であり、事実であると思う。夏子に向き合って本気の言葉をかけてくれた仙川さんもなくしてはいけない。
登場人物たちはそれぞれのコスモを抱えて、日々を生きている。夏子はそれぞれの存在を認めて、自分の選択を間違ったものにした。
正解ではなく、間違うという表現をしたのが、すげーーーーーーいいんだよな。
どの人物から切り取っても確かに間違いにみえるんだよ、夏子の選択は。
逢沢も夏子も緑子もすべてすべて結果論だ。
でも最初の選択はやはり間違いから始まるのじゃ。
わたしの人生も、間違った選択から始まったのであれば、まちがったとしてもええやんやろな